文化大革命  ポスター

品番:PO-9 
品名:写真
価格:¥410「税込」 現品限
※毛主席会見アルバニア  1969年 

※毛主席、アルバニア労働党中央委員会総書記、と歓談

この時毛沢東が、「中国では兵士になれば腹いっぱい食べられ、月六元の手当てもある」と述べたそうだが、
当時の農民の平均収入は月六元にも満たなかった。

アルバニアの歴史


第1次バルカン戦争ののち、1912年にオスマン帝国からの独立を宣言する。ドイツ人のヴィルヘルム・ヴィートを国王に迎えアルバニア王国となったものの、第一次世界大戦で国王が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。1920年には国王不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたがその後も政情は不安定で、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した。その後ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアは王政となった。1939年にイタリアに併合され、1940年のイタリアによるギリシャ侵攻においてはケルチュラをはじめとする南部の各地域が激戦地となった。1944年11月29日、ソ連軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とする社会主義臨時政府が設立された。1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退したことにより、ユーゴスラビアと断交する。

1961年の中ソ対立からソビエト連邦を批判、1968年にワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカを大量に建設し、国内の武装体制を強めた。

ソ連と袂を分かつ一方で中華人民共和国に接近するものの、近隣諸国とは、ほぼ鎖国状態のままであり、経済状況は次第に悪化。また1967年に中国の文化大革命に刺激されて無神国家を宣言、一切の宗教活動を禁止した。1976年に中国で文化大革命が収束し、改革開放路線に転換すると中国を批判した。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助も無くなり、1980年代には、欧州一の最貧国とまで揶揄されるに至った。このため、ホッジャの後継指名を受けたラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。この間、それまで外交関係がなかった日本との国交を1981年に樹立している。