宦官(かんがん)とは                       清王朝末期(西太后の頃)宦官のトップ「李蓮英」の写真を見る

 商「殷」王朝は、異民族を捕らえて奴隷として使役したりしていたが、後宮などの后妃、宮女など多くの女性がいる特殊な場所での雑役に使うために去勢を行った。
 
西漢の頃、死罪にあたる罪を犯した者でも、本人の希望により宮刑(去勢すること)を受けるか、死刑になるかを選ぶ事ができるようになった。武帝の頃、「史記」を著した司馬遷もそのひとり。

本人の希望で進んで、又は親の命令で手術を受けて宮廷に入る者も出てきた。それというのも、そのように宮廷で後宮の雑役など内向きの仕事をしているうちに、皇帝や后の信頼を得る宦官も出てくる。
 
 例えば信頼によって太子(皇帝の後継者)の教育係りに任命されれば、太子が即位した時にはもっと美味しい思いが出来るわけだ。


ただ、名士たちは自らを「清流」と呼び、宦官のことは蔑みを込めて「濁流」と呼んだりした。


確かにそのイメージに一致する宦官は多数存在したらしい。

例えば始皇帝の頃の宦官、趙高は中国史上最悪の奸物と言ってもいいくらいの悪宦官。
始皇帝の遺言を握りつぶして自らが教育係りをつとめていた始皇帝の次男を即位させ、皇位を継ぐはずだった長男を自殺させた。
その時、丞相を脅迫して片棒をかつがせたが、うるさくなってきたら無実の罪を着せて殺し、
邪魔になってきた2世皇帝まで暗殺させた。

三国志の時代の十常侍は暗愚な皇帝を影で操り、稀にみる長寿だった王朝を傾け、衰退させた。

三国志の時代の蜀漢の黄皓も宮廷に蔓延り国を蝕む悪宦官だった。

しかしそのように権威を誇る宦官はごく僅かで、
ほとんどの宦官は安い給料で働かされ続けた上に、働けなくなったら容赦なく捨てられた。

宦官は世間の一般人や名士に忌み嫌われていた存在だったため
故郷にも帰れず、一所に定住することすらかなわず、孤独に野垂れ死ぬしかなかったらしい。

唐の国王・李訓(りくん)は、宦官に国をのっとられないために、宦官制度の廃止を考えていたのですが、このことを知った宦官たちが国王・李訓を暗殺、唐は宦官によって滅ぼされてしまいました。


また、宦官の中にも立派な人物はいて、


「史記」を著した司馬遷、
紙の製造法を改良した蔡倫なども宦官である。


※因みに司馬遷の場合は、
 多勢に無勢で敗戦を喫してしまった味方の武将を弁護した為に当時の皇帝(武帝)の怒りに触れて宮刑に処されてしまった。
 
 その後、中国での宦官制度は20世紀初頭まで残り、清の最後の国王・溥儀が北京の紫禁城を去ったときに、470人の宦官が国王の世話をしていたという記録が残っています。


 ちなみに日本では、宦官制度は日本人の性格に合わず、うけいられませんでした。