品名:若かりし西太后
品番:D-70
サイズ:高さ:32cm  横8cm 奥7cm
重さ:697g
材質:青花磁器
価格 \4.300「税込」現品限
中国・福建

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満漢全席と西太后

北京の宮廷料理は、明代の山東料理をベースにあったものに、清代になり清朝を興した満民族が好んだ羊などの料理が加わり、さらに江南の揚州料理が加わって完成されたということです。「満」は満州族、「漢」は漢民族をそれぞれ意味している。清朝をおさめた満人は少数民族だったので、満人と漢人を同じポストにつけて政治を行ったのでした。交流の場である宴席に、満民族と漢民族の両方の名菜を集めた料理が必要だったというわけなのです。料理文化の頂点を極めた清朝末期、皇帝の食卓には百皿におよぶ料理が並んだといわれています。皇帝の手が届き実際に食べる料理が並ぶ卓は“吃一(チイイ)”、見ることができ食べるかもしれない卓は“看二(カンアル)”、遠くにあって眺めるだけの卓は“観三(グワンサン)”と呼ばれたとか。そして、宮廷では御膳房(ごぜんぼう)が皇帝の食事にたずさわり、三百人を超える料理人が働いていたということです。
満漢全席は行事によっては宴会の盛り合わせが変わります「モンゴル親潘宴」と呼ばれる宴会があります。これは清代の皇帝が、皇室と婚姻関係を結んだモンゴル族の親族を招待するために設けた宴会です。この宴会を催す場所は、宮廷の「正大光明殿」でした。
 普通、この宴会を行う際には満族の最高位の大臣が相伴することになっています。ですから清代の歴代皇帝はこの宴会をとても重視しており、毎年開催していたそうです。「万寿宴」とは、清代皇帝の誕生日を祝う宴席です。皇后や貴姫、そして朝廷の大臣は、みんなこの日に皇帝にお祝いの贈り物を献上することを誇りに思ったそうです。
 この宴会を催すために一千万両近くの銀が費やされたと言われ、中国歴史上かつてない贅極まる宴会の一つとして知られています

さて西太后は大変なグルメで、満漢全席は西太后のご機嫌を取り持つものの一つであったそうだ。
彼女は咸豊帝の側室であったが、皇帝の死後、権力を握った。そのエネルギーの源は、何と言っても食慾−美食の追求であった。近代一の美食家と言われる由縁である。
 その暮らしぶりの贅沢さも桁外れで、  西太后の食事の際は大テーブル一に108品の料理を並べさせ、その食事終了後は器のまま破棄し、同じ食器は使わなかったと言う。また、西太后が出かける時のお召し列車には、50のカマドを常時用意していくための厨房車が四輛連結され、料理人100人が待機し、100種類の正菜と100種類の軽食を何時でも用意できたという。自分の還暦を祝うために海軍の整備費を流用して、北京に頤和園を改築した。ここで二百種類に及ぶ料理を作らせ、連日連夜の宴会をもったという。
 このため海軍の軍事力はガタガタになり、日清戦争の敗北、諸外国の侵略へとつながり、清王朝を滅亡へと導いたのである。












底には、福建会館の文字とあとはわかりません