辮髪「べんぱつ」について一言



中国の辮髪は、本来は清王朝によって漢族社会を支配した満州人の習俗であり、漢人の服従の証として、彼らに強制されたものだった。 従って、調髪の仕方としては剪髪(せんぱつ)と総括しえるとしても、それを止めることは、日本の丁髷(ちょんまげ)とは違った意味合いがある。 つまり、辮髪を止めることは、満州族の支配を認めないという、即、死に直結する意思表示となった。


 ※ここでいう「剪髪(せんぱつ)」とは、ごく一部分{後頭部}のみを残して頭髪のほとんどを刈上げた(というより、剃りあげると言った方が良いかもしれない)、朝鮮をのぞく近代東アジアの成人男子に一般的だった髪型のことで、日本の丁髷。 元服「成人」の際に前頭部のいわゆる月代(さかやき)を剃り落とし、頭部のほとんどに髪はない。後頭部から側頭部にかけて残った髪を伸ばして一本に束ね、これを後頭部から頭頂部に向かって棒状に乗せるのが武士や町人に一般的だった。
同様に、中国の辮髪も後頭部にわずかに残した髪を長く伸ばし、編んで一本にし、腰部あたりまで垂らす。労働の時には、頭に鉢巻のように巻きつけたりする。



 清朝末、日本に留学した多くの中国人学生は、日本で辮髪を切り落とした。しかし、そのまま帰国すれば反清朝として逮捕は免れない。そこで彼らの多くは帰国の際、当時日本で作られた辮髪付きの帽子を持ち帰った。 状況を変えたのは、言うまでもなく清王朝の崩壊だった。